皆々様こんにちは。
『機動戦士ガンダムGUuuuuuuX(以下『ジークアクス』)』担当のgatoです。
前回は衝撃的なシーンが目白押し。
キシリアによるギレンの暗サツ、イオマグヌッソによるア・バオア・クーの破壊・そして邂逅するマチュとニャアン。
一気にクライマックスへとなだれ込む第11話。
まだまだサプライズがあったようなので、じっくり振り返っていきましょう。
あんなに一緒だったのに

© 創通・サンライズ
まずは前半とマチュとニャアンについて掘り下げましょう。
もっと「キラキラ」を

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前回イオマグヌッソを使い、ゼクノヴァによってア・バオア・クーを丸ごと消滅させる偉業(?)を成し遂げたニャアン。
しかし彼女の様子は決して平穏ではありませんでした。
特に印象的だったのが、「キラキラ」に関する彼女の言及です。
シュウジが起こした「キラキラ」=ゼクノヴァとは違うと理解しつつ、「シュウジを取り戻すためにはもっと大きな『キラキラ』がいる」と憑りつかれたようにイオマグヌッソの銃口を地球に向けていました。
キシリアの子飼いとなり、彼女に忠実に従いながらも、なおもシュウジに「執着」している一面が表れていますね。
ただ、やっぱりニャアンの危ういところは、ア・バオア・クーを消滅させた行為の本質が「不特定多数の人間を殲滅した」であることをスルーしている点です。
つまり、地球に平然と銃口を向けている時点で、ニャアンはより大勢の人間の命が奪われることを本質的に理解していないといえるでしょう。
第5話の記事でニャアンの「キラキラ」や、彼女の振る舞いについて色々記載しましたが…。
かつて愛すべきシュウジを平然と盾にしたように、ニャアンは目的を達するためなら他者の存在を一切無視してしまえる一面を持っていました。
今回もまた、そんな彼女の一面が如実に表れたといえるでしょう。
もっとも、それでもニャアンにはまだ良心はあったようですが…。
これは後で具体的に掘り下げましょう。
悲鳴は届かず

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シャロンの薔薇を解放するため、マチュはニャアンが乗っていると知らずにジフレドを攻撃。
激戦を繰り広げる中で、マチュとニャアンは互いの存在を認識しました。
印象的だったのは2つの描写です。
まず、イオマグヌッソの発射によって聞こえたというララァの「悲鳴」をマチュは感知していたのに対し、ニャアンは「ただ気持ち悪いだけ」と漠然とした感じ方をしていた点。
これは2人のニュータイプとしての能力の差というより、状態の差異を示すものだと感じました。
シュウジへの「執着」に憑りつかれたニャアンは干渉してくるララァの存在を感じつつも、それを他者だと認識していないのでしょう。
先述したように、ニャアンのニュータイプ的な本質(つまりは「ディアボロ」的な素質)は、第5話の記事で書いたように「他者を超越する」ものであり、ある意味では「他者を一切無視する(できる)」というものです。
対して、マチュは異常事態が続発する混沌とした状況下でもララァの存在を感知することができていました。
これは後述するシャアの「洞察に満ちた優しさを持つ者」というニュータイプの本質に沿った精神感応ができていると捉えられます。
そもそも、シュウジに「執着」しつつも、マチュはララァという存在を常に意識し、自身の感情以上にララァを助けるべきだと考えていました。
シュウジに「執着」する余り、地球に住む人々の存在を度外視しているニャアンとは、この点も対照的ですね。
つまり、無自覚に他者を排斥してしまうニャアンに対し、マチュは常に他者を感じられる状態を維持できているというわけです。
後述するように過激な行動に走ったキシリアに従ったことで「ディアブロ」になってしまった(あるいは「なる直前の」)ニャアンと、シャリアから手ほどきを受けたことでニュータイプの在り方を維持できているマチュの対照性がよく表れている場面だと感じましたね。
降り立つシュウジ

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ニャアンを退け、ジークアクスのリミッターを外したマチュはシャロンの薔薇の解放に成功。
そして、そこでシュウジと出会います…が、彼は言葉を発さない霊魂ような姿でした。
シュウジの状況については後ほどあらためて考えますが、個人的に思ったのは第7話の記事で書いたことです。
シュウジが姿を見せたのは、イオマグヌッソを撃ってまで彼と再会しようとしていたニャアンではなくマチュでした。
まぁ、彼が大事にしていた「薔薇」を守ろうとしたマチュを選ぶのは、あの状況で考えると当然でしょう。
その意味では、ただシュウジへの再会を夢見たニャアンと、シュウジの大切なものを大事していたたマチュとの差が残酷なほど表れている気がします。
もちろん、シュウジはニャアンを完全に無視していたわけではありません。
彼女が「ワケワカ」になっても、シュウジはニャアンの在り方を認めていました。
ただ、シュウジはどこかでニャアンの目的が自分のそれとは重ならない…そんな予感をしていたのではないでしょうか。
だから、ニャアンが自分にすがってきても、シュウジはどこか突き放した態度を取っていたわけです。
本当のニュータイプなら

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いよいよ表立ってキシリア排除に乗り出したシャリアは早速エグザベ率いるギャン部隊と交戦。
一瞬でエグザベ以外のギャンを撃墜するという圧倒的な強さを見せつけました。
一方で、シャリアの行動に困惑するソドンの面々にシムスは「来るべきニュータイプの時代のため」と語っていましたが、コモリは真面目な顔で「本当のニュータイプならそんなことはしないよ」と言いました。
個人的にこの場面はすごく面白かったですね。
あの状況において、確かにキシリアは排除すべき対象ですが、その結果シャリアは多くのニュータイプを手にかけています。
大義こそ正しいかもしれませんが、手段は必ずしも褒められたものではないでしょう。
そもそもニュータイプを「他者と誤解なくわかりあえる存在」と定義するなら、シャリアの行動はニュータイプの在り方から逸れている印象は否めません。
コモリの発言は、シャリアの抱える矛盾を鋭く指摘したといえるでしょう。
一方で、シャリアの行動それ自体に正当性が全くないわけではありません。
それを指し示すのが、マチュにいった「軍人には軍人の責任の取り方があります」というセリフでしょう。
シャリアの策略がどのような結末を描いているかは、まだわからないところも多いですが、シャリアはシャロンの薔薇の解放をマチュにすべて託しました。
そして自身はギャン部隊と全面的に戦い、味方からも非難を受け得る立場に甘んじています。
シャロンの薔薇の解放という重大な役目を果たすことによって生じる責任を自身で背負うという彼の意思を示しているのではないでしょうか。
つまり、シャリアはマチュに世界を救うという大役を任せると同時に、それによって生じる責任を引き受けようとしているのでしょう。
格好をつけていうなら、未来を拓く新世代の背中を旧世代のニュータイプが守る…こんな具合ではないでしょうか。
エグザベたちキシリア派のギャン部隊に対しても、シャリアは同じ気持ちを抱いていたのかもしれません。
だからこそ、立場上彼らを撃墜しなければならない一方で、「許せ」「できればあなたのようなニュータイプはコロしたくない」と詫びるような言葉を抱いていたのでしょう。
シャアに「執着」し、時に政治的に物事を片付ける冷徹さを持ちながらも、シャリアがマチュやエグザベに甘かったのは、ニュータイプの先輩として、それこそ「ニュータイプの時代」の主役となる者達を守りたかった気持ちがあったからかもしれません。
その意味では、『Z』でカミーユであったシャア(クワトロ)に近い心情なのかもしれませんね。
メビウスの宇宙を越えて

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さて、ここでは怒涛の後半を順番に整理していきましょう。
赤い彗星の帰還

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次回予告でもチラ見せされていましたが、やはり注目すべきはシャアの帰還でしょう。
誰もが予想したように、シロウズの正体はシャアでした。
いやー第8話の記事で逆張りしてガルマ説を唱えてみましたけど、まったくの無駄でしたね!(笑)
驚いたのが、再登場したシャアは『ジークアクス』の世界線のシャアだったことです。
てっきり正史の方がやってくると思っていたのですが、言動を見る限り『ジークアクス』のシャアであることは間違いないでしょう。
うーん、だとしたらソロモンのゼクノヴァで消息不明になったのは単純に姿を消していたという感じですかね。
ゼクノヴァによってどこか別の場所に飛ばされ、「キラキラ」のなかで〈ララァ〉に触れたことでシャロンの薔薇やゼクノヴァの原理を知り、そしてシュウジに出会い、シャロンの薔薇を解放するために潜伏していた…というのが、彼の5年間だったのでしょう。
シュウジとの関係については不明な点も多いですが、「同志になってもらいたかった」といっているところを見ると、シャアは彼の能力を買っていたのでしょう。
しかし、シャロンの薔薇=ララァに入れ込んだシュウジがシャアの目的を知って拒否、赤いガンダムと共に宇宙へ逃走した…。
流れはこんな感じでしょうかね。
逃走の過程で赤いガンダムを強奪していそうな感じもしますが、シャアがシロウズの姿でシュウジに赤いガンダムを見せていたところを見ると、潜伏の都合上乗らなくなった機体を与えた可能性もありそうですが。
ただ、気になったのはシャアがシュウジの正体までは知らなかったような素振りを見せていた点です。
後半「キラキラ」のなかでシュウジと対話をするなかで、シャアは彼に「お前は何者だ」と問いかけていました。
つまり、シャアはシュウジが『ジークアクス』の世界にいる経緯を知らず、またシュウジもシャアに身の上を話していないことが窺えます。
この辺りの謎については、後でじっくり掘り下げましょう。
キシリアの「執着」

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今回はキシリアがイオマグヌッソを使って地球に住む人々を殲滅しようとした理由が語られていました。
端的にまとめると「人の革新を守るために旧人類を一掃し、新しい世界を(できればシャアと)構築する」
ジオニズムの過激派といった感じでしょうか。
キシリア自身、ニュータイプの片鱗を見せていましたが、同時にそれはシャアへの「執着」もあったようです。
この辺り、それとなくハマーン・カーンを彷彿とさせますね。
本作のキシリアの過去はあまり触れられていませんが、ギレンへの反発、ニャアンに語っていたこと、レオ・レオーニの発言などを踏まえると、キシリアはザビ家の一員でありながら常に虐げられ、邪魔されてきたのでしょう。
大義のない大人や地球に固執する古い大人に常に邪魔され、理想を馬鹿にされ、命を狙われてきたからこそ、自分に歯向かうすべての敵を一掃する思考になったのかもしれません。
いってしまえば、キシリアの目的は「自分を邪魔する一切を排除して〈自由〉になること」といった感じでしょうか。
そう考えると、キシリアがニャアンに入れ込んだのもわかりますね。
難民として常に虐げられ、自由を奪われてきたニャアンは、キシリアの自己投影の対象になったのでしょう。
自分と同じように虐げられているからこそ、邪魔する者を排除する手段としてジフレドや銃をニャアンに与えたわけです。
その意味では、キシリアはニャアンが辿る可能性のあった未来の一つともいえるかもしれません。
ニャアンがシュウジを完全に失い、マチュと敵対する道を選んでいたら、もしかしたらキシリアのようになっていたのかもしれませんね。
一方で、キシリア自身は必ずしも完全に歪んでいたわけではありません。
ニャアンが懐いたことからわかるように、キシリアが彼女に向けていた気持ちは純粋な優しさが宿っていました。
だからこそ、エグザベ達もキシリアに従い、「地球を撃つわけがない」と思っていたのでしょう。
そして、そのような「洞察に満ちた優しさ」を持つからこそ、キシリアもまたニュータイプになり得たわけです。
〈自由〉の行方

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さきほどはややネガティブな表現も交えて掘り下げたニャアンですが、後半ではついに行動を起こしました。
シャアと決裂したキシリアがマチュに銃口を向けたのを見て、ニャアンは彼女を撃ったのです。
まぁ、シャアとの会話を聞いた際にキシリアの本当の目的を知ったことや、彼女が塩対応をしたことでニャアンが疑問を持ち始めたことも影響したのでしょうが…。
やはり一番はマチュを守ろうとした気持ちでしょう。
第8話の記事でも、ニャアンは「ディアブロ」になる危うさを持ちながらも、マチュに想いを馳せる一面が残っていることに触れました。
シュウジへの「執着」は相変わらずでしたが、友人だったマチュを咄嗟に守ろうとする想いはまだ残っている。
シュウジに「執着」しつつ、彼の大切な人であるララァに想いを馳せられるマチュと同じように。
マチュを想う気持ちが、ニャアンを突き動かしたのかもしれません。
第6話の記事でも触れましたが、ニャアンは元々シュウジとマチュの3人の関係が好きだったんですよね。
その想いを残せていた時点でニャアンはまだ救いがあるのでしょう。
もっとも、色々手遅れな気もしますが…。
銃口の先

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ここでは前回の記事でも触れた2つの銃の行く末について掘り下げてみましょう。
前回はかなーり当てずっぽうに「マチュもニャアンもお互いを撃たないんじゃないか」と書きましたが…。
結果論だけ拾うなら実際そうなりましたね!(笑)
あんな感じになるとは思ってもいなかったですけどね!(笑)
何はともあれ、マチュはオメガ・サイコミュのリミッターを破壊するために、ニャアンはキシリアを止めるために銃を使いました。
前回出した文句に沿うなら…。
「正しさ」の象徴たるシャリアの銃はシャロンの薔薇の解放のために使われ、「強さ」の象徴たるキシリアの銃はニャアンの大切なものを守るために使われた…といった感じでしょうか。
ただ、今回のエピソードに合わせてもう少しひねるなら、シャリアの銃はあくまで「ニュータイプを生かすため」に使われるものなのでしょう。
かつて自身に銃を向けるまでに追い込まれたシャリアがニュータイプに目覚めたときのように。
対して、キシリアの銃はただ「強さ」というよりも、「守る」ための銃と捉えるべきでしょうね。
かつてキシリアが自分の意思を押し通す=自分を守るために誰に対しても銃を向ける覚悟を持っていたように。
皮肉にも、キシリアが相手でも躊躇わず撃つ結果をもたらした以上、ある意味では正しい使われた方をしたというべきでしょうけど。
いずれにせよ、マチュとニャアンがもらった銃はお互いを撃ちあうためのものではなかったというわけです。
なお、僕が銃の描写に妙にこだわる理由は、度々書いているマチュ×ニャアン×シュウジの関係が、アムロ×シャア×ララァを彷彿とさせる点に関係しています。
正史では、ララァを失ったアムロとシャアは最後の最後で対立し、撃ちあう道を選びました。
ただ、『ジークアクス』はそのような展開になる危うさを秘めつつも、マチュとニャアンが互いと向き合う様を度々描いています。
今回のエピソードを踏まえると、本作は致命的なすれ違いや耐えがたい喪失があっても「洞察に満ちた優しさ」を守り、互いにそれを向けあえる関係を描くことが一つのテーマになっているような気がします。
つまり、歴史を繰り返さないようにするためには、絶対にお互いを撃ってはいけないんですよ。
先週は銃が出てきたことで、『コードギアス』などを連想させる感想が巷に溢れていましたが、そんなことに絶対にならないためにマチュとニャアンが頑張ることが、この物語の本質だと思っています。
少年と彗星

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『キラキラ』での対話では、シュウジとシャアはお互いの目的を語っていました。
シュウジはただララァを守りたいと思いつつ「彼女が作ったこの世界を終わらせるために」と戦う一方、シャアはララァを消すことでシャロンの薔薇によって歪んだ世界を正そうとしているとのこと。
まぁ端的にいうならシャアはララァを排除して『ジークアクス』の世界をあるべき形(ゼクノヴァのない世界)にしようとしているのでしょう。
一方のシュウジの目的は「ララァを守り、解放することで『ジークアクス』の世界を終わらせる」ということになりますが…これはどういう意味なんだろうか。
第9話の記事ではララァについて色々記載しましたが、こうなると『ジークアクス』自体が〈ララァ〉の夢の一つ…みたいな解釈をする必要が出てきそうですね。
うーん、『ジークアクス』の世界=ララァの夢というのは第9話の時点でも考えたんですけど、なんか『ANEMONE』感がありすぎてあんま好きじゃなかったんだよなぁ(笑)
現状としては、シャリアと同じようにララァをシャロンの薔薇=エルメスから解放し、元の世界に戻す…というのがシュウジの目的のような気がします。
対してシャアは純粋にララァの息の根を止めてしまおうという感じでしょうかね。
このように書くとシャアが冷酷な感じがしますが、実際は自分のために呪いのような夢を見続ける彼女を解放してあげようという優しさが根底にあるのかもしれません。
そう考えると、ララァの「執着」を捨てきれなかった正史のシャアとは真逆のスタンスな感じがしますね。
BEYOND THE TIME

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さて、ラストでは「向こう側」からまさかの「白いアイツ」が登場。
最終回に向けて、最後のキャストが揃ったような感じになりましたね。
いやーどこかしらでアムロを絡める予感はしていましたが、まさかこんな形で出てくるとは(笑)
乗っているのがアムロと確定したわけではありませんが、予想外の絡ませ方で声が出ましたね(笑)
一方で、気になったのがコモリのセリフです。
今までのゼクノヴァは『ジークアクス』の世界から「向こう側」に質量エネルギーが流れていたのに対し、今回起こった「本物のゼクノヴァ」は「向こう側」から質量エネルギーが流れてきているとのこと。
つまり、今回は「向こう側」から『ジークアクス』の世界に干渉しているということですね。
これまえのゼクノヴァはアルファ・サイコミュを搭載した赤いガンダムやシャロンの薔薇が『ジークアクス』の世界から「向こう側」に干渉し、何か(シュウジとか)を転移させていたのに対し、今回は「向こう側」の何かが白いアイツを送り込んだということでしょうか。
となると…やっぱりアムロなのかな!?
おまけに今回はEDで『BEYOND THE TIME』が流れているなど、『逆襲のシャア』を彷彿とさせる演出がなされていました。
そう考えると、アクシズ・ショック前後の出来事が絡んでくるのかしら…。
ニュータイプとアルファ殺し

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さて、最後に今回のエピソードで出てきた「ニュータイプ」と「アルファ殺し」という概念を整理しましょう。
これまでの記事では、ニュータイプの定義を富野由悠季の発言や過去作の描写も踏まえて「他者と誤解なくわかり合える存在」と定義していました。
ただ、今回のシャアの発言を踏まえ、『ジークアクス』におけるニュータイプは「洞察に満ちた優しさを持つ者」と定義しなおすことにしましょう。
ニュアンスは近いですが、シャアの発言をもう少しかみ砕くなら、『ジークアクス』におけるニュータイプは「『執着』を抱きつつも、他者を慮り、思いやりを忘れない」存在であるともいえそうです。
シュウジに「執着」しながらも、ララァを救おうと懸命に戦い、ニャアンに憎しむを向けなかったマチュのように。
シャアに「執着」しながらも、マチュやエグザベといった次世代のニュータイプへの愛情を捨てなかったシャリアのように。
「執着」の果てに過ちを犯さず、憎しみを巻き込まず、大切な人を想いつつも他者を切り捨てない。
それが本作のおける理想的なニュータイプなのでしょうね。
では、アルファ殺しとはなんなのか。
作中に出てくる描写からアルファ=ララァをコロす存在…と捉える解釈が一般的なようですが、個人的にはもう少し踏み込んだ解釈をしたいところ。
そのためには、第2話の記事で書いた「すべてはアルファであり、オメガである」という言葉を踏まえる必要があります。
本作ではゼクノヴァの発生源であるシャロンの薔薇、そして作中で起こった2度のゼクノヴァの中心にいた赤いガンダムにアルファ・サイコミュが搭載されています。
一方で、シャアから「アルファ殺し」と称されたジークアクスにはオメガ・サイコミュが搭載されています。
そして「すべてはアルファであり、オメガである」=AΩ(AZともいうそうです)は「永遠」を意味する言葉。
では、「永遠」とは何を指すのでしょうか。
これはララァ、正確にはシャアを救おうとして救われない呪われた夢を永遠に見続ける〈ララァ〉を指すと考えています。
そして、アルファ殺しとはすべての起点たるアルファを終わらせる者、「永遠に囚われゼクノヴァの元凶となった〈ララァ〉を解放する者(永遠を終わらせる者)」ではないでしょうか。
「いやカッパ・サイコミュを搭載したジフレドとかはどうなんだ?!」という指摘を受けそうですが、これは「アルファ殺し」の異なる在り方…としておきましょう。
つまり、シュウジとシャアが同じように〈ララァ〉を救おうとして異なる手段を取っているのと同じです。
ジフレドは〈ララァ〉=シャロンの薔薇を利用してゼクノヴァを起こすなど、むしろ〈ララァ〉を苦しめる永遠を歪んだ形で利用しようとする存在と捉えるべきでしょう。
〈ララァ〉の苦しみを増長させ、彼女を永遠に「コロす」存在としての「アルファ殺し」という感じでしょうか。
いずれにせよ、〈ララァ〉を捕えている永遠をどうするかが、「アルファ殺し」の本質のような気がします。
そして、シャリアの意思を継ぎ、シュウジの大切な人である〈ララァ〉を解放する道を選んだマチュこそが、本来的な意味での「アルファ殺し」なのでしょう。
『ジークアクス』第11話感想

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いやーしんどい!
クライマックスまでみっちみちに情報を詰め込んでくるもんだから…。
もう何をどうしたらいいかわからない(笑)
とりあえず拾うだけ拾いましたが、とりとめのない感じになっちゃいましたね…。
もう気力がないのでこの状態にしていますが、なんかいわれたら修正するかも…。
まぁいずれにせよ!次回で終わり!
僕はこの作品は12話でしっかり完結すると思っていますが、どんな結末になるのやら…。
楽しみですね!
▼ジークアクスの記事はこちらにまとめてあります!
▼水星の魔女の記事はこちら
▼機動戦士ガンダム THE ORIGIN 前夜 赤い彗星の記事はこちら
▼当サイトでは他にも多数のアニメを考察しています!